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 5week  2003/1/26 〜 31

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1月26日(日)

朝方の5時に寝室のドアを叩く音で眼が覚める。
「おばあちゃんが、危ない!みくに医院に先に行ってる。」父親の声。

昨年の暮れから祖父母が二人とも入院している。その病院からの知らせが父親に入ったようだ。相当慌てている。実は、いつ逝ってもおかしくない状態で、もうかれこれ2週間も過ぎていた。暮れには一時危篤状態にもなっている。

”きたか...”

慌てて飛び起き、妻といっしょに病院に向かう。
朝5時の街。まだ夜明け前で、人通りはない。まだ、ボーっとしている頭で運転していると、まるで夢の中のようだ。 この歳になるまで身内の死を体験したことのない自分にとって、ここからは未知の世界。次に何が起こって、自分の気持ちがどうなるのか?まったく解らない。心臓がドクドクと脈打っている。

病院に到着して4階までを階段で登るが、そのなんと長いことか。病室に入ると、おばあちゃんのベッドの周りに人垣が出来ている。両親と、担当医の先生。心拍計を見ると、なんと200/分を超えている。僕らが全力疾走してもなかなかならない値だ。

”...”

おばあちゃんは、酸素マスクをつけて、苦しそうに首を左右に振っている。長い間そうしているせいで、唇はカラカラに乾き、皮膚が剥がれそうになっているのが、痛々しい。

妹夫婦も、遅れて部屋に飛び込んできた。僕も、妹もおばあちゃん子だったので、こういう光景はたまらなくつらい。

ややあって、心拍計をみていた担当医が、

「もう、大丈夫です。落ち着きました。」
「先ほど電話したときは、この...体に吸収される酸素量が100のところ、50を切ってしまい、危なかったのです。今98ですから、もう大丈夫だと思います。」

よかった。”そうだよな。そんなに簡単に人が死ぬわけがないよな。”

と自分に言い聞かせる。本当にホッとした。


こんなことがあっても朝は普通にやってくる。

それから30分ほどして、空が明るくなった頃、病院を後にした。

実は昨日、院長先生から祖父母2人の容態を聞いたばかり。基本的には老衰。おじいちゃんが94歳、おばあちゃんが90歳だから。

先生によると、 おじいちゃんの方は安定した容態だそうで、後数ヶ月は大丈夫。おばあちゃんの方は、来週いっぱい位で快方に向かうか、悪くなるかがハッキリするという話だった。昨年の11月に祖父が入院、12月に祖母が入院してからずっと心配していたから、この話を聞いた時には、少し安心していた。しかし、その日の翌日にこの話だから、えっという感じ。

しかし、これでは収まらなかった...

夜になって、食事も済み、お風呂から出てくつろいでいる時でした。

「浩光、今電話があって、おじいちゃんがあぶないそうだ。すぐに病院にいくから!」

また、連絡が入ってしまった。自分の耳を疑う。おばあちゃんではなく、おじいちゃん?

「えっ、おばあちゃんじゃないの?」

2度目ということもあり、今度は車の運転も冷静に出来た。こんども行ってみたら助かるだろうという気持ちもあった。しかし、病院について部屋に入ると、もうすでに、心拍停止状態で、院長先生が蘇生処置をしていた。

「おじいちゃん!」

思わず声がもれる。真っ白な肌で、微動だにしないおじいちゃんがそこに。とても死んでいるようには見えない...。

「先ほど、巡回で病室にいったら、すでに呼吸が停止していました。」

そこに、父親が入ってくる。先生が蘇生処置をしながら、一通りの説明。しかし、心拍は戻らない。

「...ではこれで、よろしいですか?」
「はい、結構です。」

「10時50分、御臨終です。」

初めて、人の死に立ち会った。
今まで、幸福なことに身内の死がなかった。遠い雲のの上にあった”死”という概念が、道端にころがっているような、そんな何でもない物のように、起こる。ということを実感した。涙が、あふれてきて止まらなくなる。

何度もおじいちゃんの頬を触るが、まだ暖かさが残っている。あんなに安定した病状だと言っていたのはなんだったのだろう?病室で、一人っきりで、どんな思いで気を失ったのだろうか?最後に話した言葉はなんだったろう?

いろいろなことが頭の中を駆け巡った。

遺体の処置をしている間、別の階にあるおばあちゃんの部屋にいった。意識が朦朧としているおばあちゃんに向かって、心の中で、”今、おじいちゃんが、逝ったよ...”と言う。とても言葉に出しては言えない。でも、言った方がよいのだろうか?いや、わからない方がよい。

もう、12時を回っていた。
小雨が降り始めている。
院長先生と、看護婦さんに見送られながら、病院を後にした。

 

 
1月27日(月)

朝からお通夜の準備であたふたしている。
本当は今日の朝一に、CGの納品があったのだが、代わりの人に行ってもらうことにした(当然だけど)。

午後3時ごろ納棺。
これもはじめての経験。布団の上に寝かされた遺体。なんだか、今にも起き上がりそうな気がする。親族全員で足袋を履かせ、手甲をつけていたら、また涙がこみあげてきた。”本当に死んでしまったんだ”というのが事実が、覆いかぶさって来た。”死”というものに救いはない。そう思った。

しかし、こうしている間にも、もし、おばあちゃんが危篤になってしまったら、どうなってしまうのか?が、気がかりでならない。そんな話ってないよな?と自分に言い聞かせる。

初めて経験する喪主側の立場の通夜。

通夜の席で、 遺族はこんな気持ちであそこに座っていたのか?がやっとわかった。通夜で線香をあげ、亡骸のまえで合掌してくれる、人の手の、なんと暖かいことか。沢山の人達の手のぬくもりが、このどうしようもない事実を暖かく包んでくれるような感触を覚えた。

それにしても、お経をあげてくれている住職のなんと頼もしい背中だろう。死の全てを理解し、次に何が起こるのかのすべて知っているかのような、凛とした態度。今はもうこの人に頼るしかない。どうか、死というものを、人の前から消し去って、見えないところに持っていってはくれまいか...。

その日、線香を絶やさない為に、葬儀場に泊まった。
父親と2人で、久しぶりにいろいろ話すことが出来た。父親からしてみれば自分のおやじが死んだ訳で、その落胆は僕の比ではないと思うが、表からはそんな気持ちはわからない。

夜中に、トイレに起きる。

ここの葬儀場は、変わっていて、夜、葬儀会社の人間が誰もいなくなる。泊まっているのは、僕ら親子だけ。死体安置所もあるというのに、そんなんでよいのか?と思うが、鍵の開け閉めまで任される。

部屋から出た廊下は、寒々としていて、やはり何か恐怖を感じる。廊下はT字路になっていて、左側が死体安置所。よせばいいのに、ひとりで行ってみることにした。そこを右に曲がると、廊下は左に折れている。その曲がり角にドアがあったので入って見ることにした。真っ暗で、ほとんど何も見えなかったが、開け放ったドアからの明かりで、すごく広い宴会場であることがわかった。何かが潜んでいるような気がしてすぐにそこを出る。左に折れた廊下は、10mほど遠くで闇に消えている。よく見るとカーテンのようなものが突き当たりにあるらしく、風で揺らいでいるのが見えた。”なぜ、室内なのに、揺れているのか?”と思い、これまたよせばいいのにそこまで歩いていった。すると、天井から下がったカーテンが見えてきて、確かに、揺れているではないか!さながら幽霊屋敷のようだ。ふと、死体安置所のことが頭に浮かぶ。

えいっと、思い切って目の前のカーテンを開いてみる。自分でもよくこんなことが出来るか不思議。あたりはほぼ真っ暗である。開けてみると、そこは小さな部屋になっており、ビールケースが雑然ところがってる。その上の壁に、小さな窓があって、そこが開いていたのだ。そこから風が吹き込み、そのせいでカーテンが揺れていた。ホッと胸をなでおろす。ちょっとした冒険だった。

その後、祭壇の線香を確認して、部屋に戻る。
外を見ると、昨日からしとしと降っていた雨も上がったようだった。

 

祖父、お通夜
1月28日(火)

朝、眼がさめて外に出ると、陽がさしていて良い天気になりそう。少し寝不足で頭がボーっとしている。

9時半、告別式。10時半、出棺。
お棺の周りで、最後のお別れ。頬を両手で触ってあげる。”おじいちゃん、いろいろありがとう”。心の中で合掌する。もうこれで見納めかと思ったら、涙がこみ上げてきた。お棺のふたの釘うちは心に響く。嗚咽が、隠せない。ひとり部屋の隅にいって泣いた。


火葬場でお骨になり、無事墓に収まると、死が、だんだんと遠のいていくのが解る。住職の後ろ姿に線香の煙が逆光に照らされ、後光のように見えた。


しかし、人の生とは、なんともろいものだろう。
おじいちゃん が死を迎える、その最後の数週間は、正常な意識がなくなって、混沌としていた。話しかけても受け答えが出来ないようになり、おそらく、自分がどんな状況に置かれているのかがわからなくなっていたと思う。まるで、幼児期に退行するかのようなそれは、死の恐怖から逃れる防御スイッチの役割を果たしているのだろうか?

自分にとって、死は遠い存在で、永遠に来ないのではないか?というのが実感だった。社会全体が死を見えないようにしているのは明らかだ。しかし、僕はもうすでに42歳であり、人生の半分を過ぎようとしている。これから、身体的には良くなることはなく、ただ、ただ、老いの方向に向かうだけ。今現在の精神活動のレベルが維持できる期間は、後何年だろうか?と強く思った。

仮に、後20年だとすると、その20年の間で、自分には何ができるのだろう。何が残せるのだろう?そんな視点で人生を考えると、無性に寂しくなるが、それが現実。人の人生の何処に、”救い”があるのだろうか?

 

祖父、告別式
1月31日(金)

仕事場に復帰してみると、何事も無かったかのように世間が動いてました。あたりまえだけど。

さて、今日は、先週講演を行った”CGフェスティバル”の慰労会をしてくれるということで、オートデスクの柳原さんがわざわざライブに来てくれました。自分だって大変だったろうに、心遣い感謝です。ご存知のない方のために、少々説明しますと、柳原さんは、日本のVIZのプロダクトマネージャーで、VIZコミュニティの中心人物。時々、パンツいっちょで社内を俳諧する癖があるのが欠点ですが(笑)、月曜から金曜までで自宅に帰るのは1日だけというパワー全開の人です。

講演当日のビデオとアンケートを貰いましたが、「感銘をうけた」「刺激になった」「会社のCGスタッフに聞かせたかった」など、少しは役にたったことが解ってホッとしました。聴講してくれたみなさん、本当にありがとうございました。


左から私、柳原さん、吉田くん 

慰労会(=飲み会)の方は、これはもう柳原さんの独断場でした(笑)。
ナカジン(中嶋設計事務所の中嶋さん)の話など、 面白いネタが山積み。うすうす面白い人だとは思っていましたが、これほどとは...。

自分とほぼ同年代である彼も、人生の長さを実感しつつあると言ってました。40歳を過ぎると誰でも考えるようになるのでしょうね。身近に死が増えるという事実が、身の処し方を考えさせるのだと思います。

病院では、こうしている間も、おばあちゃんが肺炎と戦っています。もう気が気ではない...本当は。

 

 
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