Chapter2 ミニコン時代(1982〜1989年頃) page6
さて、この機械を使って初めて実際にアニメーションの仕事をした時の話ですが、今までと違い、快適な環境に満足しながら撮影しました。しかし、できあがったものは失敗作でした。ちゃんと意図したとおりのアニメーションが展開されているのですが、画面全体が1秒〜2秒間隔で揺れているのです。船から見た景色みたいにゆらゆら揺れているのです。初めはフィルム上の駒揺れかと思ったのですが、この原因は思わぬところにありました。PSがわざと画面を揺らしていたのです。つまり、同じ場所を電子銃がたたきつづけると蛍光面に穴があいてしまうのです。文字どおり焼ききれてしまうわけです。


フリッカーとの戦い


このPSを使って結構長い間仕事を続けましたが、大変だったのはベクター方式が持つちらつきのせいでそのままでは、撮影ができなかったことです。 この当時もまだ画面を直接撮影していましたので、画像がちらついてしまうと明るさが変化し、露出があわなくなってしまうのです。数万ベクターになると数秒おきに画面が出たり消えたりするので、とても撮影 などできません。

フリッカーを起こした状態


これを回避する為にとっていた方法が、多重露光です。データをフリッカーがおきない量に分けて撮影します。 この方法ならどんなに画像のベクター数が増えても対応できます。

   
 
 

この例では、フリッカーがおきないように2つに分けて2回の多重撮影を示しています。

 

最高で45重撮影をやったことがあります。45回に分割して表示し、45回の多重撮影をするのですが、さすがにこれだけの回数の多重露光は恐ろしいものがありました。だって45回目に失敗したらすべてがだいなしになってしまうからです。

一回の撮影自体は自動化していましたが、表示画像を変えたりフィルムを巻き戻したりするのはどうしても人間がやる必要がありました。 これがつらいんです!一回の撮影に1時間程かかっていたんですが、 これを45回繰り返すと45時間、約2日間かかります。その間1時間おきにその作業をしなければなりません。寝ることもままならず、起きているわけにもいかず、完徹よりもつらかったですね。人間って一度寝てしまうと起きてすぐには頭が働きません。それも1時間おきに繰り返すのですから地獄でした。その状態で一度でも間違いをおかすともう一度初めからやりなおしになります。しかも締め切りは目前に迫っていますからその緊張感は並みたいていのものではありませんでした。

そうして出来上がったフィルムの現像があがってきてラッシュを見るときは、心臓が飛び出しそうになります。最後まで息を殺して見て、何も問題がなかったときの喜びは言葉では言い表せませんでした。




この頃のCG界の動向


この頃、海外では、"デジタルプロダクションズ"がスーパーコンピューターCRAYを使って"スターファイター"などを作っていた時期だったと思います。面画と呼ばれるシェーディングのかかった画像を見て、ため息のでる思いでした。自分たちもレイトレーシングレンダラーを作ったりしていましたが、まったく実用になるものではありませんでした。だってレンダリングにものすごい時間がかかりましたから…。

日本では、僕がサピエンスのソフトを作っている頃にJCGLができました。もう知らない人もいるかもしれませんが、日本で初めにできたCGプロダクションです。地下一階、地上一階のしゃれた建物の中にVAXやPDP11などが所狭しと並んでいました。一億円もするフィルムレコーダーもあったりと、まさに豪華絢爛の設備でした。
また、PS用にPADシステムを作り変えている頃、「トーヨーリンクス」プロダクションが活動をはじめます。ここでは、専用のマルチプロセッサーマシンを作り、レイトレーシングを高速化していました。大阪大学の大村先生がレイトレーシングのアルゴリズムを考え出し、それをもとにできたのが"トーヨーリンクス"ですからレイトレーシングとリンクスは切っても切れない間柄というわけです。 リンクスさんはその後非常に質の高いCGを作られ、一時はCM界を席巻していました。


そして時代はいよいよワークステーションの時代になります。